七日町観世音菩薩尊像の縁起
観音堂には聖徳太子の彫刻なされた観音・弥勒の二尊像を本尊として安置してある。
縁起(略記)
睦町(旧吉住町)の龍蔵寺が昔、奥州会津熱塩というところの慈眼寺(この寺は歴史的に有名な
殺生石を済度した玄翁和尚の開基の寺)開基から四代目後粕原院の御代永正年中の頃(永世4年、1507年)
、市の西方千安京田(千安京田は間違い。現在は鶴岡市安丹になっている。当時は千安といった。後に丹波興屋と合併して安丹となる。)に禅林宝雲山龍蔵寺開山量山善思禅師が分寺建立された。その時に聖徳太子の
彫刻なされた観音・弥勒の二尊像を拝受した。
それより上杉家の領地となり、後二十余カ年間の合戦の街となって、寺は悉く焼失し、この時、観音・弥勒の尊像および
什物、過去帳等紛失した。
その後後陽成院の御代慶長六年(1601年)善宝寺10世の住職骨念雲徹禅師が龍蔵寺を再建された。
慶長十一丙午(1606年)の年、出羽大守義光公は、大梵字の地名を鶴ヶ岡と改め吉地の古城を補造した。
その時に七日町より出た人足が内川辺の補造にあたったら、以前に紛失した観音・弥勒の二尊像が
出世されたので義光公に奉ったところ御喜びになり、現在の地に清水山柳福寺を建立なされ、その観音・弥勒の
二尊像を本尊に安置した開帳仏がこれである。七日町より出た人足共堀上げ奉った称美として吉地の吉の字を
七日町の紋章としてたまわった。菱吉の紋がそれである。
爾来三百八十余年七日町町内で護持し、その縁起により午年御開帳仏として御開帳祭を斎行して現在に至る。
明治二十一年五月八日の大火災により柳福寺は類焼し再建出来なかったので、七日町信徒により現在の
七日町観音堂が再建された。
明治四十二年四月南丘寺の所属として護持管理一切は総て七日町観音堂として七日町町内で行っている。
霊験あらたにして庄内は申すに及ばず各方面に数多くの信者がいる。
庄内三十三番札所の二十九番の霊場並びに平和観音百霊場の十二番の霊場として昔ながらの札うち姿(巡礼
姿)の参拝者がたえない。尚、大悲尊像の縁起は龍蔵寺にある。
祭典としては、八月九日 夏祭り
十二月十七日 御歳夜祭 だるま市で賑やかである。
午歳御縁年の御開帳祭 十二年目毎に斎行される。
近年は平成二年に三十二回目三百八十四年祭を斎行した。
鶴岡市本町二丁目十一番七号
庄内札所二十九番
庄内百霊場十二番
七日町 観音堂
安丹の歴史・年表